トップページに戻る

佐々木長左衛門先生のこと 「留萌文学」89号、2004.7.25 藤本 英夫
                   ◆プロフィール






『アイヌの話』
初版は大正11年発行
(1922.7.31)




金田一京助の序が
載っている二版の表紙



扉(拡大)


奥付

大正15年
(1926.8.5)
旭川文学資料調査室蔵



『アイヌの話』
第三版は昭和2年発行
(1927.6)



第四版となる
増補『アイヌの話』

昭和6年(1931)
旭川市図書館蔵




昭和7年8月に発行された
編者佐々木長左衛門
『近文アイヌ部落概況』
旭川市図書館蔵


扉・奥付拡大


アイヌ細工一式
十勝石細工
フイヌ人形各種
絵葉書類
アイヌ参考書類
熊彫各種
販売・佐々木豊栄堂
旭川市旭町11丁目









佐々木長左衛門編

アイヌ資料集第5巻
『アイヌの熊狩りと熊祭』
1980・昭和55年
北海道出版企画センター
旭川市図書館蔵
ぷろろーぐ

 愛と理性と了解とを以て私を養育し下さった亡父母と内助の功の多かった亡き妻の霊前に此のささやか物を捧ぐ


 一読してこれは、亡き両親と亡妻への献辞と、分かる。また、言葉づかいから書いた人はクリスチャンと、想像つくが、この人は、いまから八十数年前、旭川近文の旧土人学校・豊栄尋常小学校(以下、豊栄小学校と略記)の校長だった佐々木長左衛門という人。「ささやか物」とは、大正十一年(一九二二) の彼の著、『アイヌの話』のこと。献辞は開いた扉にあり、書いた人の繊細な愛情がうかがえる。その年、彼は四十三歳だった。

 この人の名は一般には知られていない。私が関心を持つようになったのは、彼が校長をしていた豊栄小学校の卒業生、アイヌの少女・知里幸恵の伝記を書きながらだった。まわりの和人から差別と偏見で見られていた幸恵は、長左衛門のとも夫人に、深いところで気をゆるしていた。どうしてだろうかー私は、二人の共感関係から、ともの夫にも関心をもつようになった。

 佐々木長左衛門の生涯は、彼の子供たちが編んだ「佐々木長左衛門経歴書」(以下「経歴書」と略記)と、彼の次男・佐々木義民(大正五〜平成五)が残した、原稿用紙二十七枚の「父母の懐い出」(以下「憶い出」と略記)でおよそを知ることができる。この二つにはあたたかい親子の情がこめられていた。
 私は、この二つを澪木に佐々木長左衛門に近づくことができた。順序として、私がこの人に関心をもった理由をもう少し述べる。

  1 「父母の憶い出」

 私が「佐々木長左衛門」の名前に出会ったのは、いま述べたように、豊栄小学校の卒業生、夭折したアイヌの少女、知里幸恵評伝取材中だったから三十数年以上も前になる。
 取材中、私は、彼女が大正九年春四月に使用していた小さい手帳の表紙メモに強くひかれた。三月、女学校を卒業した彼女が四月、旭川から登別に帰省する。その車中でのもの思いしながらのメモであるらしい。表紙の表と裏に「佐々木登も先生」「とも先生」とあり、その横に行くばりにこだわらないで、「昨日出立の際はいろいろと御世話になり相成り御餞別まで○○お餞別、餞別……」、「随分お暑い○○何卒ご自愛専一に……」などとある。手紙の下書きらしい。私は餞別をやりとりする二人のつきあいの深さにひかれた。しかも佐々木夫人は病人であるらしい。
餞別をもらって帰省する知里幸恵もこのときは半病人であったはず。私は、二人の関わりの深さを思わせるこのメモの意味に近づきたいと思った。
 ところが、取材を続けていると、佐々木長左衛門先生については、悪い噂がばかりが耳に入ってきた。いい話が聞こえてこないのだ。「とも」という人はその悪評の人の奥さんだ。どうしてか。この人は、しかもアイヌ学校の校長さんで、『アイヌの話』という、薄いけれども著書をもっているのに―。
 評判は、そういう本を書いて、アイヌに理解顔を見せながら、その実、この人はアイヌに冷たく、アイヌを食い物にした人、という、念のいったマイナス評が多い。プラス評を聞かせてくれる人がいなかった。
 この評を最初に耳にしたことは、私にとって不幸なことだった。
 幸恵手帳のメモからのとも夫人の印象と長左衛門先生の不評との落差に私は悩んだ。―
 その頃、私は、まだ四十四〜五歳、取材技術が下手くそなうえ、人間の解読も未熟だった。主テーマの情報にだけ目がくらみ、結果的には知里幸恵理解の幅をもせばめることになる。そのことに気がつくのは、恥ずかしいことに、昭和四十八年、最初の知里幸恵伝上梓のずっと後だった。
 私の頭のなかで落差はだんだん広がり、長左衛門先生のマイナス評はどうしてなのか、と「?」がだんだん大きくなった。
 そんなあるとき、私は、友人の大塚一美氏から長左衛門の子息の佐々木豊氏を紹介されて、「?」に近づくことができた。豊氏からは、「経歴書」と「憶い出」を見せてもらい、佐々木長左衛門という人の、世間に流れている悪評の虚実にも近づくことになる。折々に豊氏からは、言いにくそうに、佐々木長左衛門の家族としての長い間の苦悩も開くことになる。
 「親父はアイヌに熱心だったけど、小学生のとき私は、お前の親父は、アイヌを食い物にしている、と言われ、同級生には、私が、長左衛門の息子と知られれたくなかった。そんなんで、私は、クラスにいた仲のいい一人のアイヌのほかは、必要ないかぎり、アイヌから遠ざかったもの」と。
 そして、彼の口から、当時の佐々木家の生活の様子や、さらには、後でも触れる、当時の佐々木家をよく知ってる人を紹介されて、長左衛門と幸恵の関係を再構築、私は、幸恵伝を大きく改稿することになる。

 佐々木長左衛門―この人は、「経歴書」「憶い出」によると、明治十二年(一人七九)十二月八日、父・佐々木善内、母・すての四男一女の三男として、宮城県小野田村で生、昭和二十八年(―九五三)、旭川市で死、七十四歳。
 「経歴書」をくわしく見ると、彼は、明治三十年(一八九七)、十八歳の若さで教職につき、明治四十一年、二十九歳で北海道に渡り、上川郡上川尋常高等小学校を振り出しに、長い教師生活を歩むことになる。その間、大正七年(一九一入)からは旧土人学校の上川第五小学校改め豊栄小学校校長として勤務、以来、近文アイヌとの交流が長い。

 前記『アイヌの話』は、近文で教師をしている間の知見をもとにしたもので、大正十一年初版、昭和六年までに四版を重ねるが、大正十五年の再版以後には、アイヌ研究で有名な金田一京助の、『アイヌの話』の序」が載っている。これには、佐々木長左衛門とアイヌの関わりや、『アイヌ神謡集』の編著者・知里幸恵との因縁譚が、いかにも金田一らしい筆致で語られている。

 校長在職中、彼は学校を見にきた視察者や観光客に、コタンの人たちがつくった織物、工作物を土産として販売、児童の学用品購入の足しにしたことがあった。退職後も、同じ近文地区でアイヌの工芸品販売の店、佐々木豊栄堂″を開く。
 こうして彼には、『アイヌの話』では「アイヌの理解者」の顔、アイヌ工芸品の販売店では「アイヌを食い物」にしている、という二つの顔が生まれることになる。

  2 「アイヌに冷たい人」

 「経歴書」には彼の学歴、教師になってからの赴任学校歴、ときどきの号俸と給与、賞与などが記されている。
 例えば、「明治二十五年」には、「三月三十日 尋常科四年生 平素学力優等二付キ銅色牌」とある。明治二十五年といえば彼は十三歳。
 当時、日本の義務教育はようやく四年制であったが、四年終了と同時に、高等科一年に進学、二十九年三月高等科四年卒業、三十年八月宮城県加美郡准教員養成講習会で「修身科、教育科、国語科、算術科、地理科、歴史科」など受講後、同県師範学校簡易科卒業、同年十一月、「東小野田尋常学校授業雇ヲ命ジラレ」て、「月俸金弐円給与」とある。佐々木長左衛門先生の長い教員生活のスタートである。十八歳の若さだった。
 翌三十一年二月には「月俸三円」と昇給している。
 参考までに当時の「巡査」の初任給は、明治二十四年が八円、三十年が九円。ちなみに明治二十八年、二十八歳で松山中学に赴任した夏目淑石(慶応三〜大正五)は八十円だった。米価は白米が、明治二十五年六十七銭、三十年一円十二銭(いずれも十キロ、「値段の風俗史」週刊朝日編)、なお平成の現在は約四千五〇〇〜五千五〇〇円。手元に教員の給料資料がないので見当つかないが、長左衛門先生のこの月俸、安かったのか、高かったのか。
(以下中略)


えびろーぐ
 人の伝記はむつかしいものだ。とくにこの稿、《佐々木長左衛門伝》はいまの私には体力的にも、いっそうそうだった。だが、ありがたいことに、書き進めるうちに、豊氏や大塚氏、稲荷桂司氏から思いがけないいい資料が提供された。感謝する。
 しかし、資料を活かせるのは生活を共にした豊氏だけのようだ。
 例えば、豊栄小学校の学籍簿、卒業生名簿は現在のところ見つかっていないが、長左衛門先生の遺品の、豊栄小学校の卒業生の卒業写真からは卒業生名簿がつくれる。それをできるのは、豊氏だけだから―。
 私は、佐々木豊氏の「父・長左衛門」を楽しみにしている。
 私は、初めに触れたように、知里幸恵を書いているとき、彼女と長左衛門「とも夫人」との深い心を通い合いを知りたい、と思ったものだが、そのことは佐々木義氏の「父母の憶い出」に出会ってほゞ納得がついた。なお、義氏は平成五年、湯河原で死。七十七歳だった。この稿を書きすすめることができたのは、氏の遺言のようなこの記録によるともいえる。感謝するものである。
        ※<註>留萌文学にこれを著した藤本英夫氏は、翌2005年12月24日(78歳)逝去された。

トップページに戻る