佐々木長左衛門先生のこと 「留萌文学」89号、2004.7.25 藤本 英夫

私の佐々木長左衛門先生 「留萌文学」90号、2005.7.25 松田 青浪

<旭川の明治・大正・昭和時代の絵葉書>佐々木コレクション
旭川の街並み、祝賀行事、小学校開校記念の絵葉書など 48点

<近文アイヌ・熊彫りの元祖松井梅太郎外>
アイヌ民芸品細工・木彫レリーフ、アッシ織り、鮭、熊、小刀など 10点
 
                                                  知里幸恵・参考事項併記
佐々木長左衛門 宮城県小野田村にて出生。父・佐々木善内、母の名・すて
年号・月 西暦 年齢 主な出来事
明治12年 1879 当歳 12.8、上記地にて、佐々木家の4男1女の3男として生まれる。
明治30年 1897 18 教職に就く、月俸2円、翌年3円に昇給。
明治36年 1903 24 宮城県の杉山家の長女と婿養子縁組、43年協議離婚
明治36年 1903 6.8 知里幸恵が登別で生まれている。
明治39年 1906 27 クリスチャンとして洗礼を受ける。
明治41年 1908 29 来道、上川郡上川尋常高等小学校の教師となる。
明治42年 1909 知里幸恵、旭川区五線南五区で伯母・金成マツと住み上川第三尋常小学校に入学。(現旭川市錦町15 北門中学校校庭敷地に記念碑)
幸恵は、翌43年9月13日に新設された上川第五小学校に移る
明治43年 1910 31 二度目の妻・「とも(旧姓加藤・同僚教師)」と結婚
明治期における
旭川の主な出来事
明治10.上川アイヌ41戸182人。和人鈴木亀蔵上川に初めて定住。/明治21.参謀本部次長・陸軍中将小沢武雄近文山付近を嵐山と名づく(9月)。/明治23、榎本武揚旭川視察(8.29)。旭川村開村なる(9.20)。/明治26、忠別尋常小学校開校(9.16)。/明治31、旭川駅開業(7.16)。/明治33、旭川町と改称(8.31)。/明治34、第七師団札幌より旭川に移る(9.30)/明治35、氷点下41度を記録す(1.25)。/明治39、馬車鉄道開通・旭川駅前~1線1号(5.19→撤去大正8.9.30)。/明治41、石川啄木駅前宮越屋に投宿(1.20)。 
大正1年8月 1912 33 8.13消印、佐々木長左エ門の妻・とも宛、療養先の登別・第二滝本旅館に、教え子(田下静子ら)から見舞いの絵葉書届く。
大正5年3月 1916 知里幸恵、上川第五尋常小学校を卒業、上川第三尋常高等小学校に入る。翌大正6年、旭川区立女子職業学校に入学、7の16まで6キロの道のりを通った。(入学試験を4等で合格)
大正5年 1916 37 次男・義 誕生。※昭和46.2.4『父母の憶い出』を記し、平成5年没後に発見
大正7年 1918 39 4.29、アイヌの子弟を対象とした上川第五尋常小学校は改称、豊栄尋常小学校となり新任校長として佐々木長左衛門が着任。隣家は知里幸恵、伯母・金成マツが住まう。
大正7年夏 1918 金田一京助来旭。※この夜の出来事を昭和8、『人情地理』の中で「近文の一夜」として発表されている。
大正9年 1920 知里幸恵、旭川区立女子職業学校卒業。4月、登別に帰省、隣家の佐々木とも夫人からの餞別をもらったメモを残している。9.13、豊栄尋常小学校開校10周年記念で祝辞を読む。
大正9年 1920 41 8.20、 豊栄小学校の見学者の中に内務書記官・吉田茂の名前あり。(総理大臣の吉田茂とは別人で、同姓同名)
旭川3の15錦座こけら落としで9月9日~.13日歌舞伎上演の折、市川左團次(二世)・松本幸四郎(七世)来訪し色紙を残す。
大正10年 1921 42 11.3、妻・「とも」が肺結核で亡くなる。(40歳)
大正11年 1922 43 初版『アイヌの話』発刊(大正11.7 定価90銭)。
大正11年5月 1922 知里幸恵、上京し金田一家に寄寓『アイヌ神謡集』を執筆、同年本の刊行を見ずに9月18日に死去(19歳3ヶ月)。
大正12年 1923 44 3.31豊栄小学校は廃校となり、校長を退職。佐々木長左エ門、旭川商業学校教諭に発令される。
在任中、学校参観来旭の各界著名士による色紙揮毫など、101件の資料三男・豊氏保存。◎明治43.9~大正12.3.31参観者数集計表(15,446人)
8月初旬、 知里幸恵『アイヌ神謡集』出版(東京・郷土研究社)、金田一京助本を携え、知里幸恵の伯母・金成マツのもと旭川近文に向かう。
8.10、金田一、金成マツを訪ねるも不在、隣家の佐々木長左衛門に会い話し込む。金田一京助の色紙揮毫(再版『アイヌの話』の発刊に際し、金田一京助に序文を依頼)
8.23小熊秀雄、近文アイヌ部落へ取材訪問(写真)
9.1 関東大震災発生
大正13年 1924 45 広瀬俊と結婚する。(京都出身・同志社高等女学校卒)
旭川区開市30年記念功労者として表彰される。
大正13年 1924 45 豊栄尋常小学校閉校後も参観者あり、大正12.4~13.8.19まで1,943人の記帳記録あり。
大正14年 1925 46 公立学校職員年功加俸令により年額180円給与となる。
大正15年 1926 47 旭川市4線南1号(旭町11丁目)に妻・俊名義「佐々木豊栄堂」開業。閉校となった小学校名に因み、店名に「豊栄」を冠したもの。
大正15年 1926 47 再版『アイヌの話』発刊(大正15.8)金田一京助が序文を寄せている。
大正期における
旭川の主な出来事
大正3、旭川区制施行(4.1)市来源一郎区長就任(7.24)。/大正4、田中秋声旬刊しののめ新聞創刊(10.20)、旭川新聞と改め日刊とす(大正8.11.1)。/大正10、知里幸恵が学んだ旭川女子職業学校は北都高等女学校と改称(4.1)。旭川文芸協会創立(7.1)。/大正11、区立旭川商業学校開校(5.5)、北門尋常高等小学校分教場を近文尋常小学校とす(4.1)、旭川市制施行・助役村本初太郎市長代理(8.1)、北海道旭川師範学校開校(12.4)。/大正12、初代市長に・岩田恆(わたる)第七師団27聯隊大隊長が就任(6.25)。/大正13、神楽岡に上川神社造営し遷宮式挙行、常磐公園に上川神社頓宮竣功(6.6)、市内線及び近文線バス運転開始(8.10)/大正14、神楽村、神居村役場開庁(4.1)、旭川でラジオ聴取第1号は速田弘(6.7)。/大正15、十勝岳爆発に旭川青年団連合救援隊派遣(5.24)。
昭和2年 1927 48 4.1旭川商業高校の事務嘱託身分となる。4.15豊(三男)生まれる。
校長として務めた豊栄小学校にちなんで、生まれた三男児に「豊」、長女に「栄」を名付ける。
昭和2年 1927 48 三版『アイヌの話』を発刊(昭和2.6 定価65銭)。
昭和6年 1931 52 増補『アイヌの話』を発刊(昭和6.5 定価65銭)。
昭和7年 1932 53 『近文アイヌ部落概況』佐々木長左衛門編者・佐々木豊栄堂 <記載内容の一部抜粋>
昭和8年 1933 金田一京助、「近文の一夜」と題して、『人情地理』の中で著している。
昭和12年 1937 58 4.25旭川商業高校を退職。
昭和15年 1940 61 1.11妻・俊、50歳脳溢血で逝去。
昭和17年 1942 63 4.1、北海道第三師範学校(現・北海道教育大学旭川校)の図書室に勤務。昭和23.3.31退職。
昭和21年 1946 67 4.1、旭町春光町内会部長として功績顕著により市長表彰。
昭和25年 1950 71 8.24北海道開発大博覧会に協力貢献し田中敏文知事より感謝状。
昭和26年 1961 72 10.10郷土資料に関する寄贈など徳行を讃えられ、市長表彰。
昭和28年 1953 74 3.31 脳梗塞で倒れ、栄・豊・亨・昴ら子供たちに看取られて亡くなる。葬儀は旭川市6条教会。
長左衛門の所蔵資料などは寄贈され旭川博物館に所蔵されている。
昭和45年 1970   北海タイムス45.2.19朝刊『八十年の人』<41>に人物紹介で掲載。
昭和46年 1971 次男・義氏、『父母の憶い出』を記す。※平成5年、没後に発見され知る
昭和55年 1980   『アイヌの熊狩りと熊祭』発刊される。北海道出版企画センター
平成5年1月6日 次男没 次男・義氏、没76歳。『父母の憶い出』を著した原稿を没後発見。
『佐々木長左衛門経歴書』編纂 次男・佐々木義氏(湯河原)、三男・佐々木豊氏(旭川)による。
平成21年3月 三男・佐々木豊氏から、旭川文学資料調査室に、故父・佐々木長左衛門の保存収集資料などを寄贈。

<参考読本>旭川近文アイヌについて詳しく述べられています。
旭川・アイヌ民族の近現代史 金倉義慧著