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私の佐々木長左衛門先生 「留萌文学」90号、2005.7.25 松田 青浪
 (社団法人俳句協会会員、俳誌「青女」同人)

 私が北海道第三師範学校(現・北海道教育大旭川校)図書室勤務の佐々木長左衛門先生にはじめてお会いしたのは昭和十八年春、この学校に併設されていた教員養成所に入学して間もなくのことであった。
 先生は毎朝、大きな薬缶にお湯を満たし、体育館と本館をつなぐ渡り廊下横の湯沸場から階段を上り図書室に運んでおられたのだった。たまたま、私共の教室も同じ階段を上っての二階だったこともあって、よくお会いし「お早ようございます」と、ご挨拶をすると他の先生方とは違って「お早ようございます」と丁寧なご挨拶が返って来るのには、田舎出の少年にとっては大きな驚きであった、ばかりではなく、年格好が丁度、祖父位だったこともあり妙に惹かれるものがあり、見かける度に薬缶運びのお手伝いをし「有り難う」と言われるのが嬉しく、いつしか私の仕事の一つになったのだった。
 寡黙な先生だったが、「お父さん方、元気ですか」「若いうち沢山本を読みなさいよ」というお言葉をいただいたりもした。当時の先生方(今も同様だが)は生徒を呼ぶときは「君」をつけて読んでおられたが、佐々木先生は必ず「さん」を付け、不出来の私まで「松田さん」と呼んで下さるのだった。平和な時代ならいざ知らず、非常時といわれた戦時中のことだっただけに、私にとっては、ほんとうに忘れ難いものがある。
 時には授業が嫌になり、今日は欠席しようかな、と思う日もあったけれども、佐々木先生が待っておられると自分に言い聞かせ登校したことも度々だった。
 当時の私の愛読書は改造社から昭和のはじめ出版され、一冊一円だったことから円本と呼ばれたという「現代日本文学全集」(全六十三巻?)で、菊版というサイズ。各巻五百頁位の厚さで三段組みの内容びつしりのものだった。中でも気に入ったのは『吉田紘二郎・藤森成吉集』の一冊だった。貸し出し期間中に読み切れずに、何回も何回も借りて来ては読む、という有様だった。
 この間、戦争は益々激しくなり援農や工場動員と続き授業を受ける機会も稀となっていたが、終戦当日の放送は近文の木工場での作業を中止して学校の講堂できき、戦争の終ったことを知った。翌日から夏休みに入った記憶がある。
 その秋から民主主義の講義などなどが続いたが所詮は付け焼刃……とにかく教育実習も終了、翌年三月どうやら卒業もきまり佐々木先生の図書室にご挨拶にお伺いし寄せ書きをお願いしたところ「恩義を忘れぬやうに努められ度し 図書室にて佐々木老爺」と書いていただいた。図書室を出ようとしたところを呼び止められ「修理が無理で廃本にしようと思っていた本があるから」とプレゼントされたのが、何と、先に記した『吉田紘二郎・藤森成吉集』だったのには全く驚くばかりで、思わず胸がいっぱいになってしまった。
 それは、いつも貸し出しを受けていた布表紙の全集本ではなく、ハードカバーの特装本というのであった。先輩達が相当読んだらしく、裏表の表紙は背表紙と共に剥れ、縢糸も切れた状態のものだったけれど、私の読書を記憶しておられた先生のあたたかい思いやりに感謝し、深く頭を下げた私の手をしっかり握って下さったのだった。
 この思い出の一冊は、六十年の昔の記憶を風化させることなく今も書架に並べられている。
 戦争の時代をはさんだ二年間(正味は一年間ぐらい)、図書室という限られた場所の中で知り得た先生のことと言えば、クリスチャンであること、大正時代廃校になった近文の豊栄小学校の校長先生だったことと宮城県のご出身だったこと位で、アイヌの研究家だったことは全く知る由もなかったことが悔やまれるのだった。卒業後お会いする機会があったのかどうか思い出せないが、切手が剥がれ日付印不明の賀状(絵はがき)一通と、先生の著書『アイヌの熊がりと熊祭』がありはしがき″の頁に昭和二十二年十月四日、佐々木先生よりいただくと記されている。手許に残ってはいないが『アイヌの話』と、アイヌ模様の木彫りの丸いお盆もー緒にいただいたことを記憶している。
 長々と古い記憶を辿りながら先生のことを記して来たが、昭和四十九年に入ってから藤本英夫先生の『銀のしずく降る降る』新潮選書―に出会い目を通したところ、佐々木先生のお名前が確かに載ってはいるものの、私の心の中に生きているイメージとはあまりにも掛け離れているものだった。愕然としたものの、反論する資料も機会も無い儘、月日は流れたが、幸い、昨、平成十六年『留萌文学』89号に「旧土人学校″校長 佐々木長左衛門先生のこと」を藤本英夫先生が発表された。貴重な資料を駆使し佐々木先生のお人柄を、隠れていた部分にスポットを当て再評価して下さった。
 もう何も言うことは無い。藤本先生の長年のご労苦に対し感謝とお礼を申し上げるばかりである。
 蛇足ながら、長左衛門先生亡きあと、私のところに寄せられた豊氏(ご子息・昭和二年生まれ)の書簡の一部を抄出させていただく。


 前略、先般は御鄭重なるお悔状と共に香資を頂き誠に有り難う存じました。早速霊前に供えさせて頂きました。生前中は既に老域に達し何彼と却って皆様方のお邪魔だったことと存じます。
 私共も、父が事を愛奴の話に移った時に、他事については余り多くを語らぬ父が実に楽しそうに恰で同族として、友人として愛奴の紹介に努めたこと丈が強い印象として残っております。
 父の蒐集した凡ゆる一切を旭川市に寄贈したことが、生前に行はれたということのみが今は亡き父の本懐だったと思っております。
 常に信仰と結び付き、それを形式ばらずに生活の中に融合させ、案外平穏な一生であったと思います。
 同年輩の方々よりはいつも若々しく見られておりましたのも、私共が小さかった故もありませうが、何か其処に一生を託する希ひを持ちつゞけてゐたからでは、ないかと存じます。  (昭和29・3・9付)


 ご尊父の長左衛門先生と通底するものが伝わって来る思いがするのは、私の身贔屓と言われるのだろうか。
            (社団法人俳句協会会員、俳誌「青女」同人)


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